Tuesday, September 13, 2005

加藤軍神親子の思い出(05-9-3)

去る8月18日、小学校の同級生で東大名誉教授の加藤正昭君が肝臓ガンで亡くなったと新聞に載りました。

大東亜戦争の始まる直前の昭和16年の秋、9月か10月だったと思いますが、一人の陸軍将校が小学校3年生だった私の教室に現われました。
先生が「加藤君のお父さんです」と紹介すると、その軍人はいかつい身体に似合わず優しい声で「息子をよろしくお願いします」とだけ言って頭をさげて出ていかれました。
息子の加藤正昭君は何も言わなかった、ように記憶しています。

学校に現われた将校が、実は有名な加藤建夫隼戦闘隊長であったことを知ったのは、翌、昭和17年5月、加藤部隊長がインドのアキャブの沖合いで英国の爆撃機を攻撃中、被弾してインド洋に自爆し、死後2階級特進して少将となり、軍神と騒がれるようになってからです。
藤田進主演の「加藤隼戦闘隊」という映画も作られ、大ヒットしました。

加藤正昭君はその死を聞いても我々の前では涙一つこぼしませんでした。それは軍神の名を汚さぬよう必死に耐えているようにも見えました。
昭和19年10月30日、東久留米に集団疎開していた国民学校6年生のわれわれの前に、今度は加藤部隊長の部下であった檜大尉が現れました。私の疎開日記にその記述があります。
義足の大尉は戦死の模様を話してくれましたがそこでも加藤君は毅然とした態度を見せていました。
隼は最初欠陥が多く、皆が乗りたがらないので、そこに目をつけた加藤部隊長が隼を集め「隼戦闘機隊」を作った話など、未だに覚えています。
大尉の好意で我々は後日、所沢飛行場を見学し初めて隼という戦闘機を身近に見ることができました。
この檜大尉が日本でただ一人の義足のパイロットで、本土防衛戦にも活躍し、当時最強といわれたノースアメリカンP51を隼と五式戦闘機で撃墜したことのあるエースで、25歳にして最年少の少佐に昇進した方であったことを知ったのは、戦後、檜氏自身が書かれた本を読んでからです。
その本を読むと加藤部隊長は、統率力あり、頭脳明晰、体力あり、部下思いでもあり、40歳を超えていながら平気で長時間飛行を率先してするなど、大変な人物であることがよく判ります。
部下思いであったことが自爆する戦闘への遠因になり、部下の消息を待って出発を延ばすうち、敵機来襲、出撃となったのです。 {隼戦闘隊長 加藤建夫  光人社}
加藤君には二人の弟がおり、三人の子供を抱えてお母さんは生活に苦労し、保険の勧誘員をしたりしていました。
私の母がよく相談にのっていたのを覚えています。

軍人の父親に似ず、どちらかと言えば運動は苦手、頭はすごく良くて学究肌の加藤君が東大で物理の研究をしていると聞いたのは、大学を出てしばらくしてからでした。学者は彼にふさわしいと思いました。
彼の直ぐ下の活発型の弟が日本航空に入ったと聞き、やはりこちらは飛行機か、とも思いました。
加藤君は同窓会にもほとんど顔を出さず、消息は年賀状と風の便りにしか聞けず、この何年かは年賀状も絶えたまま、今回の訃報に接しました。
東大名誉教授の肩書きだけでなく、加藤軍神の長男との注がついていました。

戦後60年、天国で、東大名誉教授の息子は軍神になった父親とどんな話をしているのでしょうか。
軍神とその息子も死んで、私はなぜか、戦後が遠くなったように感じられるのです。

          阿部 基治 

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